杖十字
魔法の心得があるということは、戦えるということだ。つまり、理屈の上では可能だ。マグル生まれなんて「みんな銃を持ってるようなもの」だと青ざめていたし。マグル世界の者にとって、魔法の徒はおそろしいものらしい。
――理屈は理屈なのよね
地響きと悲鳴と、砕ける硝子や吹っ飛ぶベンチ。いくら杖を持っていようが怖いものは怖い。
普通のトロールならいざ知らず、完全に壊れたトロールだ。
アイスクリームパーラーの主を始めとした、ホグズミードの住人が走り出る。失神光線が飛び――粉々呪文が飛び――トロールは倒れない。
退避だ、と誰かが叫ぶ。じりじりと魔法使いと魔女が下がる。腰がひけていた。トロールはというと、有象無象には眼もくれない。赤々と燃える眼が捉えるのは――。
「ギル、トロールに恨まれてるの?」
むしろ小鬼に狙われてるのよ。ナティに言ってやりたいけれど、そんな場合ではない。透明マントの下で息をひそめる。正直、かなり逃げてしまいたい。だがこのままだと何人か死ぬだろう。これだから未来視は嫌なのだ。見たくもないものを視てしまう。視て知らんぶりできたらいいのに。
――時間
ほしいのは時間だ。狙われているらしいギルは「こんな真っ昼間にやる!?」と叫び、巻き添えを食っているセバスチャンは「アンの病気を治すまで死ねるかあああ!」と叫びながら、トロールの攻撃をしのいでいる。周りも援護しているか、せいぜい飛んでくる瓦礫から二人を守るのが限界だ。このままでは踏み潰されるか頭を粉砕されるかの血みどろの未来が待っていそうだ。
「セラ」
ナティの囁き。彼女の黒い眼を見つめた。なに? と眼で問う。
「耳、ふさいで」
言われた通りにする。ナティはこんな場面でふざけるような子ではない。音がこもる。ナティが深く――深く息を吸った。
きん、と耳がしびれる。血も凍るような叫びがナティから放たれる。セラはきつく眼を瞑った。全身が粟立つ。歯が鳴った。
とん、と肩を叩かれる。ナティがトロールに顎をしゃくっていた。
狂ったトロールは頭を抱え、唸っている。とんとん、とせわしなく足踏みし――怯えているように見えた。
「ヌンドゥの咆哮」
ナティが囁く。杖なし魔法を主とする文化圏に生まれ、最大の魔法学校ワガドゥー出身の魔女は冷静だった。
セラは瞬く。トロールの激しい攻撃がゆるんでいる。
『狼縛り』の輝きが、トロールの首に巻き付く。竜すらも縛る魔法。
――トロールの首くらい
落としてみせる。
三十歩先。トロールの首から火花が散る。得体の知れない首輪のせいか否か。ひどく硬い。おそらく小鬼製の銀と、謎の魔法を斬れるか――あるいは抑えられるか。
トロールが咆哮する。セラは歯を食いしばる。ぐい、と腕を引く。ぶつり、とセラの肌が切れ、血が滲んでいく。
『狼縛り』の魔手が、トロールに幾条も絡みつく。傷はつけたが――斬るまでは無理だと判じ、拘束に専念する。
トロールが現れて何分経った? まだ五分にもなっていないのではないか。
ギルとセバスチャンだけでは駄目だ。彼らの切断呪文は『狼縛り』がつけた傷を広げている。しかし、じわじわとでしかない。トロールの血が飛び散るも、失血死を誘うには不足だ。
足の指を狙うべきか。それとも腱か。立てなくすれば有利になる。『狼縛り』をゆるめず、目まぐるしく考える。腕の傷が増え――血が溢れていく。ナティが盾の呪文を展開する。礫が当たる、重い音がし――光と轟音が溢れた。トロールの頭上から。
は、と待ち望んでいたものを見る。箒に乗った影。ためらいなく戦闘薬――雷轟と呼ばれるそれを投じるのは、黒髪の青年だ。義兄イライアス・ポッター。秘密結社杖十字会の長。永世王者。
――来た
恐れを知らぬ杖十字会。待ち望んでいたものだ。色彩が入り乱れる。寮を問わない面々が、杖を構えてやってくる。
もう一度、轟音。呻くトロールの足――腱を輝きが一閃する。何人もの切断呪文は鮮やかにトロールの肉を斬った。
トロールが尻もちを突く。立ち上がろうにも立ち上がれない。『狼縛り』の束縛があればなおさらだ。赤黒い血が割れた石畳に流れていく。トロールを覆う赤が薄れた。ギルが杖を振る――青白い光が傷だらけの首輪を粉砕した。
呆然と瞬くトロールの額を、長槍が過たず貫き、悲痛な声とともに、トロールが倒れ、動かなくなった。
あふれる血溜まりを踏み、赤い裏地のローブを着た影が、長槍を抜き取る。飛び散った返り血を気にもせず影――杖十字会の次期長、ヘクター・リアイスがやってくる。
「逃げればいいのに」
セラ。
苦虫を噛み潰したような顔だ。迷いなく歩を進め――そうだ、セラは血を流しているからわかるのか――マントをめくられる。へたりこんだセラをぐいと抱え起こした。
腕の出血がひどい。頭がぼんやりしてきた。緊張が解けたせいだ、と他人事のように思う。
ちょっとした怪我だ。ナティは大騒ぎしているし、ヘクターはせっせと手当てしようとしてるけど。
本当に、たいした傷ではない。歩いて帰れる。一人でだって大丈夫。
「傷跡が残ったらどうするんだ」
ヘクターの厳しい声。セラはふと笑った。真剣に案じてくれているのがおかしかった。
今更なのだ。傷はもうある。首に刻まれなどす黒い痕。スカーフやマフラーで隠したそれ。
どんな傷よりも重い、父の置き土産。
セラは、トロールより竜より。
人間が怖いのだと知っている。
【act6-2214字】