幸せになるということ

 草の匂い、泥の感触。鉄錆の香、ぱたぱたと降る雨。
「やめて! セラ! セラ!」
 狂ったように名を呼ぶ母。
「ぁあああぁあっ!!」
 獣のような悲鳴。あの母が上げたとは思えない、身を裂くような咆哮。
「――母親も魔眼なのか? なあ嬢ちゃん?」
 お揃いにしてやったぞ。
「安心しな。きれーにとってやったから」
 違うの、と言おうとしてなにも言えない。身を震わせるばかりでなにもできない。真っ赤な闇しかなくて。
――母様は
 違うのに。先が視えるのはセラだけなのに。
「どうする?」
「女二人だ。使い道があるんじゃ?」
 連れて帰ろうか。抵抗もできないし。先に痛めつけといたほうが楽……ん? 母親のほうは死んじまった。たく、加減しろよ。お前ら。
「強い子だなあお嬢ちゃん」
 やさしく撫でられる。呻くことしかできない。なにも見えない。誰も助けてくれない。
 はぁ。荒い息。転がりまわって泥だらけの、力尽きたセラの息。
「そら」
 かすかな音。なにかが巻かれ、濡れていく。
「手持ちの薬がないからなあ。我慢しな」
 眼をえぐりとっておいて、男の声は柔らかい。ひく、と喉が鳴る。
「行くぞ」
 腕を掴まれたその時。
 轟音が鳴り響いた。叫びと怒号、足音が入り乱れ、静かになった。どれほど時が経ったのか。息を呑む声。足音。
「なんてことだ」
 触るぞ。断りとともに抱えられる。知らない男の声だった。
「後は任せた。私はこの子をマンゴに――早くしないと手遅れになる」
 おう、と歯切れのよい声がした。
「ここは任せろ」
 イソップ
 ◆
「先生、基礎液ができました」
 ありがとう。シャープ先生が立ち上がろうとするのを片手で制す。杖を降って瓶に薬液を詰めていった。下級生の授業で使うのだそうだ。
「レイブンクローに十五点」
「いいですよ別に」
「雑用をやらせているからな」
 本来ならウィーズリーにやらせるべきなのだが。
「……鍋を爆発させられたら嫌だし?」
 そうとも。シャープ先生は頷く。先の授業で騒ぎを起こしたウィーズリーことギャレットは問題児だった。幼馴染のヘクター・リアイスはギャレットを締め上げていた。鍋の破片がセラに当たりそうになったので。セラは盾の呪文で自分とオミニスを守ったからいいのだが。
――ギャレットも考えてやればいいのに
 端っこの席でやるのはいい。だけれど眼が不自由なオミニスの近くということを配慮すべきだった。
 しかも、ギャレットは新薬を開発するどうこうで材料ではないものを突っ込んだのだ。おバカ。
 これだから嫌なんだよ、とオミニスはぶつぶつ言い、ため息を吐きながらセラに礼を言ってきた。ついでに彼の友人のセバスチャンは「一回ウィーズリーを湖に沈めたら駄目かな」とお怒りだった。彼らとは魔法薬学のみならず、色んな授業で一緒になるのだ。セバスチャンのサロウ家も、オミニスのゴーント家もスリザリン系なので、グリフィンドールと距離をとっている。オミニスなんて最初はセラのことを嫌がってた。あのポッターだって! リアイスの盟友じゃないか! 等々。別にいじめたりしないから。そこのサロウ家の君が怒るでしょうし、と言い返した覚えがある。
「君に頼むのが確実だからな」
 シャープ先生の言に、物思いからさめる。
「言ってくださったらいくらでも」
 きゅ、と最後の瓶の蓋を閉め、まとめて戸棚にしまう。
「前も言ったが」
 あれは仕事だったんだ。ぽつりと言うシャープ先生に肩をすくめる。
 元魔法省勤務、名うての魔法警察部隊隊長イソップ・シャープ。検挙した密猟者やならず者の数は省でも五指にはいると言われている。
 ムーディやゴールドスタインやリアイスと並んだ強者だ。
「人は絶望したとき」
 差し出された手を忘れないんですよ。
 父は遅れてやってきて――セラをそっちのけで母を抱きかかえていたらしい。狂ったように叫ぶ男を置き去りに、当時のシャープはセラを病院に連れて行った……。
 父がどれほどの衝撃を受けたのか、理解はしている。わかっている。セラよりも母を選んだ人だ。怒りのあまり制止を振り払い、拘束されたならず者たちの眼を切り裂いたと聞く。それほどの憤りだった。
 そしてそれはセラにも向けられた。抉られた眼を戻し、包帯を巻いたままのセラを、父はなじった。
 役立たず、と。
 未来視を持っていたくせに。そんな眼があるから。お前の母様は殺されて、あんな酷いことになったのだ……。
「妻を、」
 娘のせいで亡くした夫は。
「娘を憎むものですか」
 問いに、シャープ先生は答えない。彼はセラの父が壊れた様を知っている。任務の合間にお見舞いに来てくれたから。
「君の父は愛しすぎたし……自己中心的だった」
 罪悪感を抱くなとは言わないが、君は子どもで君の父は大人で保護者だった。
「父君は間違えたのだ」
 それは。それは命を失うほどの罪ですか。訊きかけて、やめる。シャープ先生は恩人だけれども、すがっていい人ではない。いや、誰にだってすがるべきではないのだ。
「ジークフリート殿は」
 君を守ったのだ。
「孫娘を愛していたから」
「わかっていますよ」
 幸せにおなりと言った祖父。今は冷たい土の下。監獄の闇の中で死んでしまった。きちりと身なりを整え、最後の最後まで正気だったのだそうだ。
 罪状は息子殺し。孫娘――セラをなじり、首を締めようとした息子を殺した罪で、絶海の孤島に――奈落に放り込まれた。
 現場に居合わせ、祖父を逮捕したのはシャープ先生だった……。
『幸せにおなり』
 最後に聞いた祖父の声は、どこまでも優しかった。
「君は優秀だ。進路は望むままだろう」
 無茶をするなよ。小さく言って「茶でもどうだ」とぶっきらぼうに言う。
「私がやりますよ」
 指を鳴らせば戸棚から茶葉が現れる。ビーカーを用意して、茶こしも用意して、さっさと茶をいれた。
――どこまでわかっているのか
 フィグ先生のおおざっぱな説明を――竜騒動の顛末を、シャープ先生は信じていないだろう。あんな説明を信じるのはブラック校長くらいだろうけど。
 セラとヘクターが竜騒動に居合わせたことはシャープ先生も知っているわけで、なにか厄介事に巻き込まれないか危惧しているのだろう。ぶっきらぼうだから怖いとか言われるが、別に意地悪な人ではないのだ。シャープ先生の前任なんてえこひいきがひどかったものだ。
 どうぞ、とシャープ先生の机にビーカーを置く。自分も椅子に腰かけて茶を飲んだ。
 優秀だと言われるセラ。だけど、ちっともそんなことはない。
 だって幸せになるということが、どういうことかわからないのだから。

【act4-2660字】
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