真夜中の訪問者

 ねっとりとした汗の臭い。燃えるように熱い吐息。
 セラを憎み、疎んじ殺そうとする、獣の息だった。
――父様は
 母を愛していただけで。母が愛していたからセラを――ていただけだったのだ。
 耳鳴りがする。獣が吼えている。お前なんてと言っている。そして。
「息絶えよ」
 悲鳴のような叫びがした。
 ◆
「夜中まで連れ回した挙げ句に倒れさせただと? そうかそんなに湖に沈みたいか」
「待って誤解だってヘクター! 僕とセラの関係は友達で!」
 やましいことはなにもないよ!
 獣の唸りと人間の悲鳴。ぼうとしたまま、顔に触れる。大丈夫だ。眼はちゃんとそろってる。えぐられていない。首、首はどうだろうか。実は折れてなんていないだろうか。
 そっと首に触れたら、包帯が巻いてあるようだった。火傷のような痛みに顔をしかめる。声を出そうとして、かすれた音しか出なかった。
――絞められたんだっけ
 異形の亡者に。たぶんギルが助けてくれて、脱出して連れ帰ってくれたらしい。そして医務室で、ヘクターが怒っているのか。
 喧嘩はよしてと言おうとしてせき込んだ。ぴたりと騒ぎがおさまる。沓音が驚くほどの早さで近づいてきて、ぱっとカーテンが開いた。
「水か、薬か、それとも飴か」
 一瞬前まで怒り狂っていたのが嘘のような落ち着きぶりだ。ヘクターは寝台に必要以上に近づかない。セラを検分するように見ているが、踏み込んでこようとはしなかった。その後ろにはギルがいて、セラを見て「ごめん」と口を動かした。
 水、と言おうとして話せない。ヘクターは瞬いて杖を振った。脇机に水の入った杯と、薬の瓶、飴の盛られた器が現れる。
「なんでヘクターってば入らないんだよ?」
「夜中に、女の子の寝台に近寄るわけにはいかないだろう」
 優等生な答えだった。ヘクターなりの気遣いなのだとわかっている。今、近寄ってこられてもまともに対応できる気がしない。
――父と
 年も背格好も違うのに、どうしてか逃げ出したくなる。顔も覚えていない父。真っ黒な顔をした父の影。見ない振りをしても忍び寄ってきてセラを苦しめる。ずっと、ずっと。
 セラは杖を手に取った。空中に文字を描く。
「ありがとう。先生は?」
「今は席を外してる。起きたら薬を飲ませてくれと言われている」
 先に水を飲め、とヘクターは言う。セラは半身を起こそうとして、もがいた。ふわりと体が軽くなり、背に枕が差し入れられる。杯が宙を滑るようにやってきて、セラは口をつけた。ひどく甘い水だった。それからもヘクターは巧みにセラの世話を焼いた。一定の距離を保ったまま、慎重に。幼なじみで、互いのことはわかっている。すべてではないけれど、よく知っているのだ。
 セラが真っ暗闇と、首に触れられるのが嫌いで、時々――きっかけ次第で異性がだめになることも知られている。首のどす黒い痕を恥じていることも。隠したがっていることも。だから、彼はクリスマスや誕生日にスカーフやマフラーをくれるのだ……とまで考えて、首に触れた。あたりを見回して肩を落とす。
「ごめんね。スカーフ、だめになっちゃったみたい」
「……気にするな。いくらでもやるよ」
 このお坊ちゃんなら服飾店を店ごと買いかねないから怖いのだ。
「今度はもっと強い防護をかけておく」
――スカーフがなければ
 たぶん首が折れていたかもしれない。十分な守りだったのだけれど、ヘクターは満足していないようだ。
 ギルが何事か言ったが、セラには聞こえなかった。ヘクターが舌打ちし、ギルを蹴り飛ばす。「素直になれよ」とギルはぼやいていた――が、ある一点を見る。
「お客さんみたいだよ」
 一体なにかしらと思っても、セラからは見えない。ヘクターが立ち上がる。影がカーテンの向こうに映り――窓際へ行ったようだ。
「どうした……うん? なんだって? お前の奥方がさらわれた?」
 カチカチ、と固い音。ギルに目配せすれば、寝台周りのカーテンを全開にしてくれた。窓が見える。開かれたそれから突き出すヒッポグリフの黒い頭。闇色の彼は、何事かヘクターに訴えかけている。
「待て待て。場所は……? 賊どもの巣だな」
 ヒッポグリフ――オニクスの嘴を撫で、ヘクターは杖を振った。銀色が飛び出し、二つに分かれて飛んでいく。
「ギル、お前も来い」
「説明よろしくヘクター。そもそもだ、今何時だと思ってるんだ。零時過ぎてるよ。僕らごり押しで医務室にいるだけだよ」
「オニクスの妻が密猟者に」
 さらわれた、とヘクターが言うのと同時に、駆け込んできた影が二つ。
「ハイウィングがさらわれたって!」
「アッシュワインダーズのとこに乗り込むって!」
 やってきたのはハッフルパフのポピーと、グリフィンドールのナティである。ポピーはナティのことを避けがちなのだが、今はそんなことを言っていられないようだ。
「善は急げだ。今から出ようと思う。もちろん行くよな?」
 時間外外出等々の校則違反など、どうとでもするのだろう。なんといってもヘクターは監督生であり、教師の覚えがめでたい。
 セラが口を挟む隙などなく、四人は嵐のように去っていった。賊たちも気の毒に。リアイスの男と杖なし呪文が得意な女と、なぜか知らないが追跡や罠が得意な女と、イルヴァモーニー産の決闘者に奇襲されるのだ。
 セラはため息を吐いて杖を振る。
――もういいや
 外出が露見した時は、フィグ先生に助けてもらおう。生徒に用事を頼みましたどうこうとか。セラは窓に顔を向ける。
「あなたの奥さんは、きっと帰ってくるからね」
 再度杖を振る。窓枠がぐにゃりと曲がり、大きく広がる。頭を下げて、オニクスが入ってきた。校医が嫌がるだろうが、知ったことではない。
「そばにいてくれない?」
 近寄ってきたオニクスに手を伸ばす。触れた嘴は、ひどく温かかった。

【act17-2367字】
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