雨過ぎて

「勝手なことを」
 這うような声。藤司は湯呑みを手にしたまま、開かれた襖の向こう――廊下に立つ男達を見やった。衣は濡れそぼち、雫がしたたり落ちている。どうやらミノチの封じを終え、急ぎ戻ってきたらしい。香住の長から立ち昇る怒気は、重く濡れた衣さえ燃やしてしまいそうだった。
「この者たちは――」
「使いをやったはずですよ」
 激昂している息子にも、咲江は動じない。「冷えてるでしょう。着替えてらっしゃいお前達」と言うだけの余裕があった。
「だから急いで戻ったのです」
 家に入れるなど。吐き捨てるような声に、藤司は香住の長男の余裕のなさを見る。襲われた集落、炎上、ミノチの封じを解いてまた封じ……と目まぐるしく、若い長の手には余ろう。
 挙げ句に互いに人質をとっている立場の者が、のうのうと家に入り込み、茶まですすっているのだ。振り切れるのも無理はない。
 隣の矩川に眼をやる。彼は厳つい顔に、一雫の感情さえのせていない。張り詰めた空気に、すぅっと薄刃を突き入れた。
「失礼、我々はこれで引き上げたほうがよさそうだ」
 でも、と引き留めようとする咲江に一礼し、矩川は立ち上がる。
「どういうことだと聞いている!」
 激した長――千春に相対した。
「この山に入ろうと思えば入れた」
 ひく、と千春の頬がひきつる。ほんのりと赤かった顔から、血の気が引いた。恐れからではない――感情が天井を突き抜けたのだ。
「あなたがたが不在の間に、仕掛けることもできた。我々は部外者でしかない。最低限の礼儀を尽くす気構えはあった――誰も彼もを恥知らずで敵だと思われぬがよろしい」
 矩川は穏やかな声で、しかし容赦なく千春を追い詰める。
――経験値が違うのだ
 秋川の側近筆頭と柵の長では。矩川には若造を諭す義理はないし、そのつもりもないだろう。藤司は片膝を立てたまま、事の推移を見守る。
「出ていけ」
 鬼無里から!
「千春」
 咲江の呼びかけを千春は一蹴した。
「口を挟まないでいただき――」
「使いに言い忘れていたのだけど」
 いや、一蹴しようとして果たせなかった。のんびりした母の言に気勢を削がれ――次の一言に絶句した。
「集落が燃えたから、一族には山を下りるように言ったの」
「……なにを。柵を預かるのは私です! 口出しは控えて――!」
 わなわなと震える息子に、咲江は追い打ちをかける。
「私はお前の母親ですよ。産んでもらっておいて、生意気な口をきくんじゃありません」
 ぴしゃりである。側近衆のみならず、香住の兄弟たちも、聖も気の毒そうに千春を見た。
「あれ言われてもうたら、男は立つ瀬ないなあ、ユミちゃん?」
「そうだな」
 室の隅に控えている式鬼たちが言い、重い沈黙が垂れ込めた。
――好かぬ台詞だが
 この母親は――咲江は――女手一つで男四人を育ててきたのだ。仕方ないのかもしれない。産んだことを後悔する母親よりはよほどよい……と、実母を思い出した。神島の女。気位が高く、顔立ちは美しかったと思う。最期は花顔を苦悶に歪ませて死んでいた。
 あの時代、婚姻しておいて産まぬという選択肢はなかったろうし、あの女も腹のなかに「狐の子」がいるとは思ってなかったろう。そこだけは同情してもよい。
 気詰まりな沈黙が流れる場に、軽い足音が近づいた。気絶させたはずの佐穂子である。先より顔色のよくなった曾孫は、廊下に立つ三人をかき分け、側近衆と藤司に駆け寄ろうとした。
 すかさず千春の手が伸び、佐穂子の腕を掴む。ぐい、と後ろに引き戻そうとし――藤司の眼光に、手を離した。
「よほど曾孫がかわいいとみえる」
「お前もこどもをつくればわかる」
 女子に乱暴を働くお前では無理か。
「この娘は人質だぞ」
「何度も言ってるが」
 その気になれば佐穂子を取り戻すなんて造作もないんだ。つと笑ってみせる。
「昔見ただろう?」
 お前たちが手こずった『鬼』を誰が斬り殺したか。
 キリキリと、千春が歯を食いしばる。その隙に佐穂子へ水を向けた。
「どうした。帰りたいなら連れて行くぞ」
 違うの、と佐穂子は声を張り上げる。鋭い眼を側近衆へ向けた。
「邪眼に気をつけて」
 天狗の片眼が――緑色のそれが邪眼だと、佐穂子は言った。
「術者だろうがかかるわ。私もだし、集落の人も」
 かかったやつは斬ってしまえ、と言いかけてやめた。時代が違うのだ。佐穂子は殺生を好むまい。
――桐子なら
 藤司は己が従妹に思いを馳せる。幼くして神島当主となり、鬼使いの座についた娘、苛烈で気位が高く、敵には容赦しなかった。あれならば「操られたのならば仕方なし」として、始末するだろう。ただし、戻る見込みがなければ、だが。
「私達を敵視している暇なんてないんじゃないの」
 佐穂子の声は冷ややかだ。ぐ、と千春は押し黙った。守るべき紅葉を失いかけたことは事実――佐穂子もとい、秋川の手助けがあったことも事実。至らなさを突きつけられ、柵の長の立つ瀬はなかろう。
――潮時か
 矩川が口を開いた。
「柵の長殿。明日、あらためてこちらへ伺うことにいたします。今一度、話し合いに応じていただきたく」
「話すことなど――」
「秋川が鬼無里から手を引くと申し上げても?」
「撤退すると?」
 驚愕も露わな千春に、矩川は頷く。
「鬼無里は特異な土地です。天狗が余計な火種をまく前に、我々が手を引いたほうがいいかと」
 秋川と柵の全面対決になんてなってみなさい。天狗の思う壺です。
「たとえ我々に争う意思がないとしても、そうなるように仕向けられる可能性はあるので」
 さらりと言い、矩川は歩を進める。藤司も立ち上がる。隅にいる式鬼を一瞥し、唖然としている佐穂子に顎をしゃくった。
 聖と弓生が小さく頷いたのを認め、室を出た。

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