lily of the valley


 静かな室だった。やわらかな陽が射し込んで、窓辺に置かれた花の、濡れた葉が光っていた。
 出してもらった椅子に座り、じっとそのひとを見る。青白くて、たまに起きてなにかを言う。大きくて、けれど細い手を握るとにっこりする。
「立派にならなければなりませんよ」
 お前は父の子なのだからね。
 隣に座ったばあちゃんが、そっと手を伸ばす。のっぺりと白い「その人」のおでこを撫でた。やさしく、やさしく。きっとネビルにするよりも。
――ばあちゃんに
 撫でられたことはないなあ。肩を落とす。ばあちゃんに笑いかけられたこともない。
「フランクもアリスも」
 それはそれは立派でしたよ。誇るべきなのです。
 うん、とだけ頷く。ネビルはそれしか知らない。できないとか嫌だとか言えないのだ。「立派な」親の子だから。立派というのがなにかわからないけれど、偉いとかすごいとかそういうことなんだろう、とネビルは思う。七歳になっても魔法使いじゃないネビルと違って。

 ぱちり、ぱちりと小気味の良い音がする。籠には生き生きとした緑が落ちていく。
「坊ちゃま」
 お花を摘んできましたよ。妖精に声をかけられて振り向けば、白い色がゆらりと揺れた。かわいらしい花だ。
「ありがとう」
「坊ちゃまはお忙しいのです! それなのに」
 学校からお帰りになって、植物のお世話もして。とってもご立派なのです。
 丸い眼をきらきらさせて、妖精は言う。そこには一欠片の失望もなくて、ネビルはほっと息を吐いた。
「教師といっても見習いだもの」
 だから、おやすみの都合もつくんだよ。返せば妖精はうんうん頷いた。
「坊ちゃまが先生になったと聞けば、旦那様も奥様もお喜びでしょうに」
 そうだねえ。
「そうだったらいいね」
 鼻の奥がつんとした。白い花を受け取って、リボンをかける。母が好きな花――なのだと思う。もしかしたらリボンが好きなのかもしれない。ちゃんと聞いたことがないからわからないのだ。
 膝をはたいて立ち上がる。成人祝いにもらった時計を――父のものだった時計を見る。三時を過ぎている。
「そろそろ行ってくるね」
 どこかでおやつを買って行こう。癒者の許可はもらっている。心が壊れただけで、身体が壊れたわけじゃないのだ。両親はものを食べられるし、歯もそろってる。危なっかしいけれど歩けるし、ぽつぽつと話せる。眼も見えるし、耳も聞こえる。
――なのに
 ネビルのことはわからないのだ。
 喧騒の中でサンドイッチと菓子を買って――ネビルの遅い昼食を兼ねている――聖マンゴへ到着した。
 紙袋片手に上へ向かう。特別病棟。回復の見込みのない患者のための場所へ。
 休みになるたびに、ネビルは足を運ぶ。変わらない両親の顔を見て、ぽつぽつと話す。薬草学の教授補佐になったよ、とか。庭の花が綺麗に咲いたよとか。同期が闇祓いになったよとか。でも僕は、その道に行けなかったよとか。
――ネビルは
 戦うことなんて嫌いだ。植物の世話を焼いてるときが幸せだったし、成績もそれほどよくない。少なくとも、ハリーたちのように出来がよくない。そんなことはわかっていた。自分は才能がないし、努力してもたぶん無理だと。周りが期待したから――ロングボトム夫妻の、悲劇の夫妻の息子には立派であってほしいと――ネビルなりに一生懸命だった。
『君は芯が強いのだよ』
 いまはわからないかもしれないがね。組分け帽子はそう言った。
『大丈夫だ。おそれることはない。勇気と優しさはちゃんと君の中にあるからね』
 そして帽子はグリフィンドールと叫んだのだ。ハッフルパフがよかったのに。しょんぼりしながら長テーブルに向かった。どこかでほっとしてもいた。これでばあちゃんにがっかりされずに済むと。
 とん、と階段をのぼる。
 がっかりされたくなかった。けれど、ネビルは「がっかり」のネビルだった。うっかりでもあった。できないやつだと思われてるのもわかっていた。同期たちはおおむね親切だったし、仲間と思ってくれていたけれど、たまに肩身が狭くなった。
 生き残った男の子ハリー・ポッターと、闇祓いリーン・リアイスを前にしたら、ネビルなんてちっぽけに思えたものだ。当人たちはそんなこと――ネビルを見下すようなことを言ったことはないのだけど。ネビルが勝手に引けめを感じていただけだ。
 また階段をのぼる。
『省に入らないかね』
 君は勇気があるし、仲間をとりまとめて戦ったじゃないか。とてもすごいことだよ。深く穏やかな声で誘われて、ネビルは飛び上がるほどうれしかった。だって闇祓いの――魔法大臣のお誘いなのだ。それはダンブルドアから十点もらった時や、スプラウトに褒められた時、マクゴナガルがちゃんとネビルを見てくれていたとわかった時と同じくらいうれしいことだった。でも、ネビルは辞退したのだ。戦う者ならほかにいる。ハリーもいたし。
――ウィスタもいた
 闇祓いの息子として名高く、ヴォルデモートを倒した英雄の一人と称えられている。本人はかなり迷惑そうだけど。大臣にしつこく追い回されて逃げまくっている。周りはみんな「観念して正式な闇祓いになればいいのに」と呆れていた。
 忙しいのだ彼は。一族の仕事がどうこう、マクゴナガルのお使いをこなしたり――確か少し前までイルヴァモーニーに行っていた。ついでにハイジャック犯をぶちのめして、マグルの大統領から手紙をもらってどうこうとか。さらっと言って「アメリカ土産」の現地の植物をくれた。ネビルとスプラウトは大喜びし、マクゴナガルは天を仰いでいた。教え子にお使いを頼んだからハイジャック犯を締めて戻ってくるとは思わなかったらしい。心配しなくても誰もそんなこと予想しない。
――数年休んでもいいくらいなのに
 かなり、とてもいい人なウィスタは休まない。動いていないと怖いのかもしれない。戦時に酷い目にあったようだし。
 どうせゆっくりしてねと言ってもきかないのだよなあ。嘆息する。いつの間にか特別病棟階に着いていた。廊下をそっと進む。よし、ロックハート先生はいない。最近は自画像ばっかり描いていて、押し付けようとしてくるのだ。やたらと上手な絵だった。
『才能を正しく使えばよかったのになあ』
 ウィスタはしみじみと言っていたものだ。彼はちょくちょく特別病棟を訪ねてくる。忙しいはずなのに。
――いいんだよと言っても
 誰も見舞客が来ないのはさびしくないか? と返されて黙る。昔は――ネビルが物心付く前は、お見舞いも多かったらしい。だけれど両親は忘れられていった。いまでも来てくれるのは数人だけだ。
 だから、ウィスタが気にかけてくれるのは、ありがたい。そのうちばあちゃんはいなくなる。ネビルが両親をみてやらないといけなくて、そんな中で見舞いに来てくれる友人がいてくれるのは――ぽっかり空いた空白を少しだけ埋めれるような気がした。
 独りぼっちで壊れた両親といるのは、ちょっと重くてしょっぱい気分になるから。
 もし来ているのなら、菓子でも一緒に食べようか。見舞客が誰か来てないか訊いておけばよかったかな。
 つらつら考えながら、病室に足を踏み入れ――瞬いた。
 柔らかな風が吹いている。窓が、と眼をやっても閉じている。きらきらと光が舞っている。
 魔法の気配だ。それも、おそろしく強力な。
「なにが」
 声がかすれる。カーテンを開けて、眠る母を見下ろした。痩せて薄い身体。そっと手を握る。
 よかった。あたたかい。悪いことは起こらなかったらしい。ふ、と息を吐いたとき、母の瞼が開く。澄んだ――澄み切った眼が現れる。いつもならばそのはずで。
 つ、と彼女はネビルを見る。あれ、とネビルは首をかしげる。少しぼんやりして、ここはどこだろうと眼を彷徨わせて。まるで普通のひとみたいに。
「母さん?」
 呼びかける。返事なんてない。なかった――いままでは。
 彼女はぱちりと瞬いて、ネビルを見る。真っ直ぐに、意思を秘めて。探るように彼を見て、小さく呟いた。
「……ネビル?」
 息を詰める。まさか――そんなありえない。回復しないと言われていたのに。
 ぎゅっと手を握る。視界がぼやける。背後でスリッパの音がする。振り向く。ぼろりと雫が落ちていく。くしゃくしゃな顔で笑った。
――ああ
「お父さん」
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